京都の仏師 宮本 我休 GAKYU ガキュウ

悲母観音を制作しています〇

かれこれ一年以上前になりますが、奥様を亡くされた旦那様が奥様の供養になにか仏様を制作してほしいというご相談をいただきました。

どういった仏様をお迎えされるのか、先ずはご夫婦のお話を詳しくお聞きしました。

ご夫婦はずっとお二人で暮らしてこられたのですが、過去に二度お子様を授かるチャンスに恵まれたようです。

ですがまだ医療も未成熟な時代だったこともあり、お子様はこの世に生まれることはなく、その分お二人仲睦まじく暮らしてこられたのです。

そういったお話をお伺いして、真っ先に『悲母(慈母)観音』という観音様が思い浮かびました。

悲母観音菩薩とは母が子を想うように、どこまでも深く大きい慈愛の心を表わした観音像です。

悲母観音の”悲”は慈悲の悲で、慈は『苦しみを取り除きたい』、悲は『楽しみを与えたい』という意味になります。

慈悲という言葉は元々仏教用語でそういった意味があるのですが、どうしても”悲”という言葉は『悲しい』というネガティブな印象を受けると思います。

ときには慈母観音といわれることもありますが、私は『楽しみを与えたい』というポジティブな意味を込めた”悲”を冠し、悲母観音として亡き奥様の供養と旦那様のこれからに光明を得れるよう想いを込めてお造りさせていただくことになりました。

仏は奥様を投影させ、生れてくるはずだった赤子を右手に抱え、もう一人のお子は母に甘えるように膝にしがみつく、そういったお姿を想像しました。

こういった創作の仏様を現すときは場合によっては粘土で原型を作ります。

イメージは頭にあるので原型を作らなくても彫っていけるのですが、木彫刻は修正が効きにくく、探り探り彫っていかないといけません。

原型があることで迷うことなく刀が進み、勢いや臨場感が増します。

私の場合この粘土による原型はあくまで雰囲気を形にするだけで精巧にはつくりません。

原型を精巧に作り、それを基に彫刻していくと確かに完成度は高くなりますが、それではただただ木に形を写していくだけの”作業”となってしまいます。

木彫刻、特に仏像彫刻は木塊からお姿が現れてくる、この感覚が醍醐味です〇

その時の精神状態、身体、環境などが複雑に絡み合って形作られていきます。

どんなお姿になるか完全には制御できず、同じ仏は二度と作れません…。

仏像彫刻はまさに一期一会、何より自分自身がその仏様と最初に出会えることが至福なんです〇

これは作者の特権ですね(^-^)

なので原型はおぼろげに作り、あくまで目安として臨機応変に木にお姿を現していきます。

かなりお姿が現れてきました〇

木塊からお姿が現れてくるこの瞬間がなんとも美しかったりします(^-^)

下の画像はミケランジェロの像ですが、こちらは石の塊からお姿が現れてくる状態でとどめられています。

未完の美といいましょうか、とても美しいですね。

ミケランジェロ自身は何を思ってこの状態でとどめたのかわかりませんが意図しているならおこがましいですが気持ちがわかるのです…。

この感覚は彫刻家特有のものだと思うので、やはり最後はしっかりと完成させ、仏をお迎えされる方がより感情移入していただけるようなそんなお姿を現していきたいと思います〇

先にお話ししたように仏像彫刻はその時の精神状態、身体、環境などがそのまま鏡写しのように仏の姿として表れます。

私もまだまだ未熟ですので、(^^; 気持ちが高ぶっているときや穏やかな時など日によって様々です。

心が穏やかな時は阿弥陀様や観音様のように穏やかな仏様を彫るようにし、逆に高ぶっているときなどはお不動さんなど憤怒の仏様を彫るようにするとかえって迫力が出たりします。

ですので私の場合いくつもの仏様を同時並行で彫り進めています。

その分お渡しにお時間がかかってしまいますが、仏像とは一期一会ですので一体一体手を抜くことなく、真剣に向き合い、命を削り、何より自分自身が楽しみながら仏を現したいと考えています。

お待たせしているご依頼主の方々には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、ご理解いただけるとありがたいです。

この悲母観音様はこれからさらに彫り進め、今秋には完成する予定です。

ご依頼主様に喜んでいただけるよう励んでまいります〇

 

京仏師 宮本我休 合掌

【宮本我休仏像制作実績】http://gakyu.jp/works_category/buddha

 

 

 

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